淀城
別名- | 付近住所 京都府京都市伏見区淀本町 | 現在 淀城跡公園 |
2008/7/19 | 碑・案内板アリ | 日本城郭大系 |
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稲葉神社の祭神と淀藩について 祭神稲葉正成公は、淀藩稲葉家の祖である。 元亀2年(1571)に美濃国(岐阜県)本巣郡十七条の城主、林家に生まれ、長じて稲葉重通の女婿となり、以後稲葉を称した。ところが、妻の死去により明智光秀の重臣斎藤利三の娘「福」を重通の養女として迎え再婚したのが、有名な「春日局」である。 正成は豊臣秀吉に仕えその命により、小早川秀秋の家老となり5万石を領した。 秀吉の没後、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の功により徳川家康より感状を受け、のちに松平忠昌に仕えた。 その後、下野国(栃木県)真岡の城主となり、2万石を領したが寛永5年(1628)江戸において没し、現龍院に葬られた。 稲葉家が淀藩主になったのは、初代正成より数えて、5代目の正知の時で享保8年(1723)下総国(千葉県)佐倉より10万2千石で入封した。 その後明治4年(1871)16代正邦の時に廃藩を迎えるまで、稲葉家が12代148年間にわたり淀藩主であった。 淀城の由来 徳川二代将軍秀忠は、元和5年(1619)の伏見城の廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水陸の要所であるこの淀の地に松平越中守定綱に築城を命じて、元和9年(1623)に着工、寛永2年(1625)に竣工した。 翌寛永3年、秀忠・家光父子が上洛の途次にはこの城を宿所としている。 寛永10年(1633)国替えにより永井尚政が城主となり、その後、諸大名が次々と入城したが享保8年(1723)5月、春日局の子孫である稲葉丹後守正知が下総佐倉から淀へ移り、明治維新までの百数十年間、この淀城は稲葉氏10万2千石の居城であった。 江戸時代の淀城は周囲に二重三重の濠をめぐらし「淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると」のうたで名高い水車は直径8メートルもあり城の西南と北の二ヶ所に取り付けられていた。 淀城とその城下町の盛観は延享5年(1748)5月2日に来着した朝鮮通信使(将軍への祝賀使節)の様相を写した「朝鮮聘礼使淀城着来図」に詳しく描かれている。 昭和62年夏に天守台の石垣解体修理に伴い、発掘調査が伏見城研究会によって行われ大小の礎石を含む石蔵が発見された。これは四隅に櫓を持つ白亜五層の天守閣の地下室と基礎であり、宝暦6年(1756)の雷火で炎上する以前の雄姿を偲ばせるものである。 なお淀君ゆかりの淀城は現在の淀城跡ではなくこの位置から北方約5百メートルの納所にあったと推定されている。 |